44.氷川の綾瀬澪 観察ログ

レジデンスの地下、控室。

一面ガラスのミーティングルームと、間仕切られたスタッフ用の休憩スペース。

温度はやや低めに設定されていて、空気も無音に近い。

スーツのジャケットを脱ぎ、背筋を正したままノートPCに向かう。

九条の不在時でも、滞留は許されない。そういう場所だ。

全豪オープンを終え、次は全仏に向けての調整と準備になる。

出場義務があるATP500とATP1000には最低限出場する。

4月のモンテカルロはモナコの自宅から近いという理由で出場。

これによりATP500は3大会出場で良くなる。

今年は2月終盤のドバイ。その後3月のインディアンウェルズと、マイアミオープン。

毎年、この時期は少し間が空く。

全豪オープンを終えた後の会議。

あの決勝戦で見せたら異様な状態。

九条はあれに耐えられる体を作ろうとしている。

具体的なトレーニング方法や身体管理は蓮見や志水、早瀬が行うだろう。

レオンもそれに向けて食事の管理を徹底して行う。

今後はトレーニングがより一層ハードになるだろう。

神崎は医師という立場上、あの状態になることに反対していたが、九条が言い出したら聞かない事は重々承知してる。

個人的感情と、チームメンバーとしてどうして行くかは全く別の話だ。

勝つ為に九条雅臣という選手をそれぞれの立場でサポートする。

その為にあるチームだ。

勝つ為にあの状態になる必要があると九条が判断するなら、戦い続けられるように支える。

この日本への帰国はイレギュラーなスケジュールだ。

本来なら、しばらくオーストラリアに滞在か、一度モナコの自宅でしばらく過ごした後、アメリカへ渡っていた。

実家が無い九条は、日本には滅多に寄り付かない。

日本人の真面目さ、堅実さは評価しているが、日本という国には用がない。

なのに、急な帰国が「女に会うため」とは。

チームのSlackにはまだ何も書いていないが、どう連絡したものか。

何事もなくチームと合流してくれればいい。

九条からの連絡専用スマホが鳴った。

すぐ内容を確認する。大体九条からの連絡は秒単位で動かなければいけない連絡だからだ。

内容は、例の綾瀬澪を自宅まで送って行くように、というもの。

そこまでは想定内。

だが、連れてまたここに戻るように書いてあった。

職場から直接ここへ連れて来たから、自宅に忘れ物でもあるのだろう。

それにしても、神経が図太いというか、距離感を測る意識が薄い。こちらの判断次第では、誤解を招く動きとも取れる。

車に向かうと、綾瀬澪はもう待っていた。

「申し訳ございません。お待たせいたしました」

「いえ、私が先に降りて来ただけです。ありがとうございます」

“ありがとう”

ケータリングを持って行った時も、九条の分とついでに用意しただけなのに、礼を言っていた。

自分のために用意されたものでないことは理解しているはずだ。

そこまで頭が悪いようには見えない。

与えられた「物」ではなく、費やされた「労力と時間」に礼を言う。

それは、社会性として優れているとも、ただの癖だとも言える。

だがこの女の場合、その礼がどこか“見返りを求めない”質を帯びているのが、気にかかった。

平凡に見えるようにしているが、そうではない。

彼女の感情は、“選ばせてもらえない”関係ではすぐに冷めるだろう。

一度気持ちが離れたら、二度と戻らない。

——そういうタイプに見えた。

「どうぞ」

車のロックを解除し、後部座席のドアを開けてやると、ここに来た時と同じように体を小さくするようにして乗り込んだ。

自分も運転席に乗ってシートベルトをしてから、「どちらまでお送りしましょうか?」と尋ねた。

綾瀬澪は自分のスマートフォンの画面を見せて来た。

「ここ、わかりますか?」

住所だった。

市区町村、番地、マンション名と部屋番号まで書いてある。

…警戒心ゼロだな。

「かしこまりました」

「ナビいらないんですか?」

「大丈夫ですよ」

九条はナビの音声を嫌う。

頭の中で地図が展開できる人間にしか運転させない。

着いた先はごく一般的なマンションだった。

入り口に簡易なセキュリティーはあるが、住民に紛れれば勝手に入り込めるもの。

収入の割には生活水準をあまり上げないタイプの人間だ。

入って来た分使うのではなく、最低限で良いと考える。

マンションの前で車を停止させて、運転席から降りて後部座席のドアを開けてやった。

「ありがとうございます。荷物すぐ取ってきます」

「急がなくて良いですよ。お気を付けて」

そう言っても、小走りでマンションの中へ入って行った。

人を待たせることに罪悪感がある。そういう動きだ。

車の中で待ってる間、通りすがる人間がチラチラこちらを見てくる。

この辺りで、このクラスの車が停まっていることが珍しいのだ。

治安の悪い地域じゃないが、高所得者が暮らす地域ほどではない。

マンションの入り口の方を注意深く見ていたら、あの女が小走りで戻ってくるのが見えた。

持っている荷物は明らかに日帰りの量じゃない。

国内旅行にでも行くのか?というサイズのバッグを抱えている。

無駄な音を立てずに運転席から降りた。

「すみません、お待たせしました」

軽く息を切らしながらそう言う。

「いいえ、走らなくていいですよ」

そう答えながら、バッグを寄越せと片手を差し出した。こうしないと、この女は自分で持つ。

何を取りに行った?

中身はそんなに重くはないが、それなりに量がある。

衣服と、化粧品、恐らく何か液体が入っている。

一泊か二泊で国内旅行に行くぐらいの荷物。

「…ご旅行ですか?」

世間話を装って尋ねた。

「あ、いえ。何日か滞在しても良いって言っていただいたので、着替えとか化粧品とか取ってきました」

「そうですか。どうぞ」

綾瀬澪を車に座らせてから、トランクにバッグを積んだ。

ー九条が、何日か滞在を許可した。

プライベートに誰かを招き入れるなど、彼にとっては“最終防衛線”のはずだった。

それをあっさり越えた女を、特別だとは思わない。

——だが、彼の意思に、揺らぎが出ている。

それは、チームにとって最大のイレギュラーだ。

日本に何日滞在するつもりなのか。

状況によっては、スケジュールの再編成どころか、遠征計画自体を見直さなければならない。

“これは、面倒なことになる”。

そう確信した。

九条の判断が軸から逸れれば、シーズン設計そのものが崩れる。1%の誤差が年末には致命傷になる。

「すみません、途中でドラッグストアに寄っていただけますか?どこでも良いので」

運転し始めてすぐ、そう言われた。

「はい、構いませんよ」

レジデンスに向かう途中で、車線の左側にあった店舗に立ち寄った。

駐車場に車を停めてすぐ、彼女は

「すぐ戻ります」

と言って、手持ちのバッグを持って車を降りた。

このタイミングでドラッグストアで買い物。

何を買いに行くのか尋ねるほど野暮ではない。

2分ほどで戻って来た。

「お待たせしました」

「いえ」

戻ってきた彼女は何でもない風を装ってるが、全ての感情を隠し切れるわけではない。

『自分の身は自分で守る』

そんなところか。

それは、しっかりしているようで、相手を信用していないとも取れるし、任せ切りにはしない意志とも取れる。

まあ、こちらもそのくらいの方が助かる。

万が一脅迫するようなタイプの女では、”面倒”どころでは済まなくなる。

さすがに九条もそんなミスは犯さないだろうが、世の中にはこちらが想定しない行動をとる人間がいる。

とくに感情が予測できない相手は厄介だ。女に限らず。

「…あ」

「どうしました?」

何か買い忘れたものを思い出したか?

「あの部屋って、洗濯できますか?」

聞いてから吹き出しそうになった。

この女、自分で洗濯するつもりか。

どこまでも庶民だな。

「レジデンスはランドリーサービスがあります。クリーニングも出来ます。遠慮なくご利用ください。もし、どうしても必要でしたら、私が買ってきて届けます」

おおかた、部屋に洗剤があるかどうかを気にしているのだ。

「…なんか、人に頼むの申し訳なくて。すみません、こういうの慣れてないんです」

知ってる。

そんなことは最初に見た時から分かってる。

「……不快でなければ、頼んでも良いと思いますよ。九条がいて良いと許可したということは、そういうサービスも含めて使って良いという意味です。使える物は使ってください。人に頼むことに抵抗があるものは自分で洗っても良いと思いますが、限られた時間を有効活用する為に、お金を払って人に頼む事は、決して悪いことではありません」

そう声を掛けたら、しばらく考えていた。

庶民にありがちな考え方で、”何でも金をかけない為に自分でやる”というのがある。

人に頼むと金がかかるからだ。

富裕層は時間の使い方を優先する。

金よりも時間に価値を置いている。金で頼めるものは人に頼む。人生の時間を、やりたくない事に費やさない為に。

ー九条と、この綾瀬澪の決定的な差だ。

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URB製作室

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